2008-09/レポート14 (取材報告) |
防災講演会「明日に向かって生きる −中越地震被災体験から−」 |
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2009年3月18日、練馬文化センターにおいて、防災功労者功労団体表彰式とともに、防災講演会が行われました。
防災講演会では、2004年に起きた新潟県中越地震を通して防災・減災のあり方等を伝え、かつ後世に記録として残していくため、「NPO法人防災サポートおぢや」の「語り部」として活動なさっていらっしゃる、星野剛(つよし)さんから貴重なお話がうかがうことができました。 |
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■ 「明日に向かって生きる −中越地震被災体験から−」 星野剛さんによるご講演のあらまし 平成16(2004)年10月23日の夕方5時56分に M6.8の地震が中越地方を襲いました。平成16年新潟県中越地震と命名されたこの地震に襲われた震源地に近い地域では、最大震度7の揺れに見舞われ、住宅の全半壊が1万6983棟、死者68人と負傷者4805人といった被害を受けました。 新潟県では、その3年後にも柏崎を中心に新潟県中越沖地震が起きました。私は中越地震が起きた午後5:56、もう周囲は真っ暗で、自宅にいて、もうじき夕食というタイミングでした。妻は隣の台所で夕食の支度、当時13歳で中学2年生の娘は2階に、当時11歳・小学校5年生の息子は1階の居間で私の隣でテレビを見ていたところ、びりびりと家全体の壁がびりつくような、かつて経験したことがない震動がみられたため、外で何事かあったかと玄関に向かって2,3歩歩きかけたところに、下から突き上げるような、どーんという衝撃が襲ってきました。これにより、我が家は1階の天井が崩れ落ち、ぺちゃんこになりました。落ちてくる天井をスローモーションでみているような感覚でした。びりびりという震動から本震までおそらく2秒程度でしたが、これは震源地からわずか数キロしか離れていない地区だったからと思われます。 自宅のあった集落は、新潟県小千谷市塩谷で、小千谷市の一番はずれに位置し、山古志村と川口町に接しています。一番震源地に近かった川口町木沢という地区は、地震直後倒壊した世帯はひとつもありませんでしたが、それよりちょっと離れた私たちの住む塩谷は、(本震のあと)震度4、5という大きな地震が、30分間に4波、とても短い間隔で襲ってきました。地震発生時、集落には家が51棟ありましたが、おそらく地震の第1波で3棟がつぶれ、30分から1時間たって、もう1棟がつぶれました。続く余震のため、比較的古い築30年から40年たっているような家は傾きました。地盤は比較的よく、住宅が建っているところには、それほど大きく地盤に影響はなかったのですが、集落をとりまく耕地や棚田は大きな被害を受け、土砂崩壊が見られました。 1階にいた私、妻、息子は、一瞬にしてがれきの下敷きになりました。正直なところ、私はもうだめかな、と思い、こんなことで一生が終わってしまうんだ、死ぬときは簡単なものだと、あきらめていました。外の状況がまったくわからなかったので、町内が全滅したのではないか、これでもう死んでしまうんだ、と思いました。 そうこうしているうちに、町内の皆さんが「おーいおーい」と声をかけてくれ、地震の第1波から3時間位たって、救出されました。私の上には運良く重量物がなく、うまく空間に体が収まっていたためかすり傷程度で済みましたが、妻は大きな梁(はり)の下敷きとなり、右手右足の付け根部分に梁が乗ってしまい、5ヶ月の入院を余儀なくされました。そのとき妻は息子をかばうようにして覆いかぶさって下敷きになりましたが、息子はちょうどその梁の真下にうつぶせとなり、顔がふさがっての窒息死といった状態になりました。 町内の人によって、真っ暗ななか消防ポンプの発電機によって投光機がたかれ、いろいろな職種の人や職人さんがいることから、重機や動力チェーンソー、ジャッキなどを持ち寄り、大きな余震が続き2階部分が不安定に立っているなかで、余震のたびに逃げてはまた救助の作業にとしながら救助をしてくれました。助けに来てくれた人たちも、いつ二次災害で被害にあうかという状況のなかで、危険をかえりみない活動をしてくれました。そうした町内の人は、いのちの恩人だと思っています。 午後9時頃、家族はみな救出され、隣の家の車庫に緊急避難しました。息子はすでに息をしていませんでしたがまだ温かく、懸命にマウス・ツー・マウスや心臓マッサージ等の救命処置を施しましたが、当然息は吹き返すことはありませんでした。町内では、他にも小学校6年生の男の子と女の子が亡くなりました。その他、重傷を負い長期入院した方もいます。小さい地区のなかで、人的被害としては一番大きな被害があった集落でした。 町内の人は、町会の集会所や車庫で一夜を過ごしながら夜明けを待ちました。0時頃、自衛隊の先遣隊が2名、来てくれました。途中道路がずたずただったため、オートバイと徒歩をつないで通信機器を背負ってなんとか来てくれ、自衛隊の対策本部といった所と連絡をとり、夜明けを待って、小学校グラウンドから双発ヘリが3往復して、約200名位の住民を信濃川河川敷へと運んでくれました。重傷者を優先して、自衛隊と町内の体力のある男の人が協力してヘリに運びました。ヘリで救助されるときは九死に一生という感じで、とてもうれしく感じました。その後、河川敷から住民は避難所に、けが人は病院に搬送、私は自分の息子を含む子供たち3遺体と共に検死のため、まず警察に行きました。検死を受けなければ、遺体を動かすことができないからですが、なぜこんなときにこんなことをしなくてはいけないのか、という思いを抱いたのを覚えています。 地元の斎場は被害がひどく使うことができなかったのに加え、ライフラインが断絶していて電話が使えないため、自転車を借りて葬儀屋の当たりをつけに駈けずりまわりました。ようやく見つけた葬儀屋さんのロビーに5遺体が安置されていました。余震がどんどん襲ってくるため、鉄骨造りの建物のなかにいると、怖くていられないほどの横揺れをするため、みなで近くの総合病院に避難しました。総合病院のロビーには、住民があふれていました。最初の一晩くらいは自家発電で電気がついていましたが、長期にわたると電源供給ができないとのことで、当初収容されていたケガ人も被害の少ない病院に搬送されました。私の妻も、市内の総合病院から三条へと運ばれました。 ようやく息子を荼毘(だび)に付すことができたのは10月26日で、柏崎の葬儀屋で火葬をし、その夕方、避難所(県立小千谷高校の体育館)へ合流することができました。体育館の避難所で40数日、朝6時半から夜11時過ぎくらいまでここで過ごし、夜は市内の弟の家で眠りに行くことができました。ここから市役所の災害対策本部へ情報を得るために立ち寄ったりしていました。 仮設トイレも設置されましたが、ふだん学校や集会所はいくつもないところに、500人、1000人、2000人と収容されるので、トイレが足りなくなりとても大変でした。最初の3〜4日は他から何も届かなくて本当に大変でした。3日以降は、全国からどんどんいろいろな物資が来るようになり、最低限度の生活用品は最初の2,3日が勝負で、そのあとは使い切れないほどご支援いただきました。 グランドは臨時の駐車場となり、10月末〜12月始めまで約40数日間、ここで生活していましたが、みぞれやひどい雨が降り、グランドがぐちゃぐちゃと田んぼのようになり、仮設トイレは外のグランドに設置されているため、そうした夜に表に出ると足元の悪いお年寄りと小さな子どもたちが転んで泥だらけとなったりしました。そうこうしているうちに、われわれのような活発な年代や若い人はいいんですが、高齢の方は体調を崩すようになってきました。最初のうちは気を張っていましたが、20日、30日と日を追うごとに、過労で発熱し、体調崩す人が出てくるようになりました。 その間も、ボランティアの方が全国から来てご支援してくれました。しかし、来てもらう側からしてみますといろいろな方が来てくださるため、その方がどういう方なのか、大変失礼ながら相手の身元がわからず、ごく一部ですが怪しい方もいました。なかには被災地を転々と歩くような被災地荒らしといった業者もいて、雪が消えた春に田んぼのなかから撤去したがれきが出てきたこともありました。被災者としては、どなたを信用したらよいのかまったくわからない状態で苦しんでいました。怪しいと思うと、全部が全部怪しくみえます。幸い社会協議会に登録外の全国的に災害ボランティアのリーダー的存在のグループが大きな力になってくれ、精神的な面でも支えて力をいただくことができました。私たち住民は本当に気持ちが嬉しく勇気付けられました。 早い人は12月3日から、私たちのいる塩谷町内は12月5日から、仮設住宅の鍵を渡されて入居が始まりました。5月雪が消えたのを待って、ボランティアとともにがれきの撤去などを行いました。ボランティアは、組織をまとめるリーダー的な方や、名城大学の学生さんが来てくれました。(その他、大きな斜面がすり鉢のように崩壊した写真などを見ながら説明) 平成16年、17年の冬は大雪に見舞われた年でした。地震発生直後から雪となり仮設住宅は平屋なので、雪下ろしですっぽり埋まってしまうほどです。(地震で倒れずに)残っている家も、雪と余震で傷み傾いていくことが心配されるので、家の雪おろしをしたいと行政に頼みこみますが、県道に危険箇所があったことから、市の理解は得られてても、人命第一と県の許可がなかなか下りませんでした。交渉に日参した結果、1月8日、9日から大雪が降り、10何日に先遣隊ということで、私を含め4人がかんじきをはいて地域に入ったところ、屋根の上はすでに2メートルを越える雪でいつ家が倒れてつぶれてしまってもおかしくないという状況になっていました。 町内の萱葺(かやぶ)き屋根をトタンで覆った古民家が被害を受けたのですが、ボランティアの方から壊してしまうのはもったいない、その古民家を譲り受けて修復し、新たなコミュニティの場所として活用したらどうか、という話になりました。町内には集会所があるので、新たに必要はないんではないか、という意見も出たことから、有志が20名で修復することになりました。大きな被害を受けていたため、曳き屋(ひきや)さん(家を移動させる職人)に作業を破格の費用で直してもらい、あとはみなで協力して修復し「芒種庵」という名を付けました。いまは毎週日曜日にそこに集まってお茶を飲みながら雑談をしたりしています。築90数年の家だったので、他の解体する家の床板を譲り受けたり、埼玉県の看板やさんがケヤキの看板を作ってくれたりもしました。 こうして、多くの人に助けられたりしながら、いまは農地も復旧が進みほぼ地震前の平常な感じに戻りつつありますが、なかなか完全には難しく、なんとか復旧できる農地はだいたい造り直しましたが、山の湧き水が頼りの土地なので、水は逃げて(切れて)しまい、水が枯渇し田んぼができないという場合も結構ありました。 現在は、毎年11月3日か4日のどちらか1日を、震災復興祭として、当時ボランティアで関わってくれた方や関係者を招いて餅をついたり山菜、鯉料理などをふるまうといったことを行っています。また1月15日前後に「さいの神」というわらを表に巻いて火をつけ無病息災を祈る行事も行われています。また、闘牛の復活を目指して、仮設闘牛場も作りました。(写真をみながら、解説) 一番伝えたい要点は、次のことです。
なにはともあれ、いのちが一番大切と思いますので、ご心配がありましたらぜひ住宅の耐震補強をなさってください。予算のこともあるかと思いますが、いのちには代えられませんので、ご自宅の耐震補強を検討していただきたいと思います。自分の命は自分で守る意識のもとに、よろしくお願いしたいと思います。 |
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【感 想】 ご自身の本当にお辛い体験を、まだそれほど時がたっていない時期にお聞かせいただきました。誠にありがとうございました。 講演会では、被災当時中学生だったご息女が書かれた作文が配布されましたが、弟さんを亡されたという悲しい現実に直面したご息女の深い悲しみと心の葛藤に加え、末尾の「私は弟の分まで一生懸命生きていきます」という一文からは、ご講演のタイトルにありますように「明日に向かって生きる」といった将来に向けての希望や力強さも感じられました。また、当時大怪我をなさった奥さまも、いまではもうすっかりお元気になられたこともうかがったことから、少し救われた想いがしております。 ご講演をうかがって、なぜ小さな子どもばかりが犠牲に、との想いを強くしましたが、ひとたび災害が起きれば、これまで歩みはぐくんできた個々の大切な生活・営みが一瞬にして失われます。そうならないために、ご自分の住んでいらっしゃる家が本当に安全かどうか、いざ大地震で、家が凶器となって襲ってこないかということを、早い機会に、ぜひお確かめください。 練馬区でも、大きな地震が起きる可能性があります。本来であれば被害をゼロにすることが望ましいところですが、より多くの方が少しでも被害を減らす意識や建物の耐震強化に取り組んでいただけるよう、区としても、より戦略的に啓発し、地域で活動なさっている皆さまには、今後とも引き続きご協力をお願い申し上げます。 下記サイトは、今回ご講演いただいた星野さんが所属なさっていらっしゃいますNPO法人等のホームページです。小千谷市の季節の話題や復興の様子を拝見することができますので、ぜひ、ご覧ください。 〇NPO法人防災サポートおぢや(トップページ) ブログはこちら NPO法人防災サポートおぢやさまからは、相互リンクをといったありがたいお話もいただきました。これも何かのご縁と思いますので、今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。 |
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レポーター |
秋山 真理(ねりま減災どっとこむ) |
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